昭和42年10月30日   夜の御理解
 【入力者: 末永 満】
 久留米の(?)教会の御大祭に親子でおかげを頂きました。お祭り後のお説教を初めて羽犬塚の西という先生のお説教を頂きましたが、長いをお説教でしたが、その中からこれだけ私の心に残り、耳に残ったというのを一言聞いて頂きたい。

 久留米の初代が西先生に仰った言葉の中に、まだそうですねまだ子供ながらの頃であるなるんでしょうかね、(?)若い先生ですから。日参、教えを頂いたらねその、教えを使えないとなんもならんかいと、仰ったそうですね。

 日参、教えを頂いたら、その教えを使えな、なにもならんと。たった一言ですけれども、確かにはそうですよね。同時にそれから、これはある所のある偉い先生のお話というて話されたんですね。

 教えを頂くということは変わるということだということです。教えを頂くということは教えを頂いたということは変わるということ、人間が変わるということ。やっぱこれも同じ石橋先生の言葉と、同じ内容の徳と思うんですね。

 ですからこの言葉、まぁここではもう朝に晩にいろんな解読から申し上げておるでございますけれども、ほんとにあの教えを頂いたらそれを使えにゃならんならなんもらん。だから何もならん信心ではいけない、何もならんお話頂いたっちつまらんということになるんじゃないでしょうかね。

 教えを頂く、朝の御理解を皆さん御理解頂いたら、その朝の御理解がその日一日そのようじさんなければ、使えなければ何もならん。ね。ほんにそうだなと頂いたら、もう明日からではないただ今から変わらなければ、何もならん。

 ほん今日の教えはよかった。明日からいって変わる(?)。頂いた、はぁーそうだと思ったらもうその場から変わらなければ。私あの今日頂いた頃、そんなこと思わせて頂いておりましたら、もう何年前だったでしょうかね、あの竹葉会じゃない、あの美登理会の方達が久留米の(?)先生ところで入らざった時に、羽田野さんが大変悪くて、(?)ことでございました。

 その時のことを頂いてからですね、もう何というでしょうかね、男ならこう、こうじというところでしょうね。もうとにかく良い年とっていかれておる年寄りの姿をもうほんとにこう、こうじというふうに申しますが。

 こう、こうばばといったら(?)けんで、まぁ何というでしょうか。もうとにかく、あの(?)様を年寄りしたっていったようなですね、もうあの羽田野さんは羽田野さんじゃにですけれども、そんな感じで頂くんですよ。

 はは、ああいうようなことを境にですね、羽田野さんが確かに変わられたんだということだと思うんですね。あの時に、しかも神様ごと、しかもああいう時に、しかも私だけがああいう例えばひどい思いをしたということ。

 その時にきりに、生まれ変わられたのはそのいわゆるこう、こうばば的なですね。私今日御心眼のが拝ませて頂いたような、まぁいうに、変わられたということじゃ、そういうてみりゃほんとに最近(?)おかげ受けられたな。

 何となしにもう理知的な感じの方ですが。ですから、何となしに冷たいものをこう周囲に振る回る感じがあったんですね(?)さんの周辺に。ところが、最近はそうじゃないですね。もうそのことはね、もうとにかく羽田野さんに誰が誰でもこう親しみやすい。

 もう何か側行ってこう誰かと話をなさるといったような感じが最近羽田野さんの中にあることでございますよね。私は考えなければいけないことだと思うんですね。どうぞ、教えを頂いたと、頂いたらそれを使えなきゃ何もならんばいと仰る石橋先生のお言葉、ね。
 ある先生のお話という、ね、教えを頂くということは変わるということだとこういう。それ、まぁ教えというのはです、必ずもう言葉だけではない、例えば羽田野さんの場合何か、身をもって体をもって何と教えて下さったその教えて下さった境にです、例えば羽田野さんが今日私が御心眼に拝むように変わっておられるとするならそれこそが信心だということです。

 してみると、難はなおおかげであるなということが分かります。あの時(?)びっくりした、心配した。子供さん達は信心ごとにこうして来とってからこのことなんということじゃろうかというふうに思われたらしいございますけれどもです、しかしそれを境にお母さんが変わられたということににゃ、息子達でも信心ちや尊いもんだな、有り難いんだなということになってくるわけですね。

 ですからそこ難はやはりみかげである。みかげにしなければならんです。私今日帰ってから久富先生すぐ話しましたことですけれども、久富先生ただげんべんと何十年という有り難い有り難いといいよってもです、ただ何となしに有り難いという信心が続けおたっちだめばい。私は今日それをしみじみ感じてきた。

 何か、例えば雨がある、風がある。何か困ったことがある。難儀なことが起こってきた時にです、それをすっきりと元気でしかも有り難く受けぬいて、そのことに対してお礼の言えれるぐらいなものをです、日頃頂いとかなければ信心の(?)もなかなければ力も徳も受けられんばい。

 長年、長い間信心しとごたるが、もうじゃないよというて、私そのことすぐ先生と話したことでございました。それは私は実感して帰ったからでございますね。何十年間ただ何となしに有り難いという信心を続けておってということではいかん。

 何かという時にです、もう後にさしとる何かという時にもう渋い顔しとる。何かという時にどうして信心するのにこういうことがといったようなもう顔したら、思ったらもうだめだということです。

 そういう時におかげを受けたー、というな受け方もうできれる信心して、初めて信心が開くするのだということをですね、私は実感したことを久富先生に聞いてもらったんですけれどもね。

 まぁ、久富先生に聞いてもらうというよりも私の心にまぁそう、まぁ聞いたというふうが本当かもしりません。どうぞ一つおかげを頂いてですね、朝晩頂かれる教えがです、ほんとに使えなければなりません。

 また、教えを頂いてないほどと思ったらもうそこから変わるということが教えを頂いた値打ちなんです。どうぞ